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言葉の数だけ世界は拡がる

6日にTwitterを賑わせた話題で人生の目的や人文学の必要性について考えた(前半)

Twitterでは2つのアカウントを運用しているが、サイドバーに貼ってあるアカウントのタイムライン(以降TwitterのタイムラインはTLと省略する)で見た話題が2つあった。

1つは三宅雪子衆議院議員が遺体で発見されたこと。

www.sankei.com

もう一つは明確には言い表さないしそうしたくはない。「騒動」と一言書けばその内容を察する人もいるだろうからその様にしておく。

三宅氏については、政治家としては一切支持できる要素はなかったし、2012年の第46回衆議院議員総選挙において落選したこともあり、すっかり関心がなくなった。

テレビを見ないわたしにとって、最新のニュース報道はTLから拾う物で、やはり訃報もTLで知った。氏に対しては関心はなかったものの、その死を悔やまれないことも多いであろう政治家の死にはせめてものいつも弔慰を表している。

言論人やオピニオンリーダーを貴重なニュースソースとしてフォローしていると、その死を悼む人が、氏に関する思い出や彼女自身のツイートをRTするのを目にする。

全く関心のなかった三宅雪子という政治家。

 このツイートを今更知ったことを恥じる一方で、これからの支えになるであろう言葉を知って感謝している。TwitterのBiographyを見れば未だに支持することができない政策ばかりではあるけれども、雇用、とりわけ障害者雇用に言及していることはわたしには他人事ではない。

というのも、わたしが双極性障害の治療中である精神障害者であり、卒業するにせよそれが叶わず除籍になるにせよ、大学を出ることになったら障碍者雇用枠を利用して就職するつもりだからだ。それだけではない。自分のことを出来損ないのゴミクズだと思っている程度には自己評価・自己肯定感は低い。

そんな中目にした故 大山泰弘 日本理化学工業元会長の言葉はわたしに救いの思いを抱与えた。三宅氏のツイートをRTした松井孝治氏によるこのツイート

 は救いの思いを畳み掛けるように強くしてくれた。

人から必要とされること、居場所もさることながら出番が必要であるということ。これが生の肯定であり救いと言わず何というのだろう。幸福の追求が人生の目的であるならば、必要とされる人になることは人生の目的だ。

どうせなら、自らの幸福に他の人を巻き込みたいものだ。必要とする人や必要なこと、居場所や出番を探すのみならず与えていこう。

そして、今出番がなくとも、出番はあるのだろうかと受け身で生きるよりは、出番を探し求めていきたいものである。